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2001.04.18

随筆とは難しき物也

書店で、丸谷才一の新刊(って言っても文庫の新刊ですが)が出ているのを見て、一瞬買おうかと考えたが止めてしまった。丸谷才一、昔は好きだったんだけど、ある時点からどうにも受け付けなくなってしまっている。これは私の変な癖で、小説だとそんな事はないのに、随筆やエッセイの類で、筆者の考え方やものの言い方に違和感を覚えると、どうにもその人の作品を読む気が薄れてしまうのだ。
まあ、それだけなら一般的な事だろうが、最初の内そんな違和感なぞ全然感じずに、ひたすら面白く読んでいたのに、ある時を境に急に違和感を感じ始めるのが妙なところだ。
これは丸谷才一だけの話ではなく、他にも、例えば林望なんかもそのパターンだった。読み始めの3、4冊くらいはひたすら楽しめていたのが、どの本からかははっきり憶えていないが、違和感を感じ始め、集中できなくなってしまった。最後に読んだ本では、とうとう途中で挫折してしまったくらいである。
多分、読んでいる私の方に(殆どは)責任があると思うのだが、ひょっとすると、作品そのものの質も微妙に変化しているのではないかと思うところがない訳ではない。質と言うか、読者に対する姿勢みたいなものですね。随筆であるからには、言ってみれば自分の思ったことを好き勝手に書けばいい訳だが、そうは言っても、それが不特定多数の読者が読むものである以上、自分の書いていることを客観的に見て手直しする行為というか、書く内容にある種のフィルターをかける作業というか、そういうものが発生するのが普通だと思う。文筆業を長く続けている内、そういうフィルターをかけるような行為がだんだんおろそかになってきて(もちろんフィルターをかける行為そのものが無意識に近いものだと思うから、意識してではないだろうが)、裸のというか、素の筆者の姿がそのまま現われるようになってくるのではないか、などと考えたりもする。読む側に都合のいい考え方ではあるが。
実際にはもっと単純で、最初の内よく判らなかった筆者の考え方や人柄が、だんだん判るようになってくる、というだけの事だと思うのだが(「人柄」なんて書いてしまったが、私自身の考え方と合わないという意味合いで、「人柄が悪い」という意味ではありません)。
こういう「途中で嫌になる」現象が起こらずに、安心して、気を許して読める随筆家というのは、なかなかいない。古い所だと、内田百間ぐらいだろうか。そう言えば、丸谷才一にしろ、林望にしろ、内田百間の流れを汲む随筆家だが(と勝手に思っている)。百鬼園先生はその二人とはレベルの違う個性的な人物(だったらしい)が、それでも読んでいて違和感を感じたようなことはない。この辺がやはり随筆家としてもレベルが違うということだろうか(まあ、リアルタイムかどうかの差もあるとは思うが)。
では今活躍している人では?となると、う〜ん、村上春樹ぐらいだろうか。村上春樹は、小説の方はずいぶん長いことご無沙汰しているが(「ねじまき鳥」あたりから読んでない)、時たま発表される随筆の方はコンスタントに読んでいる。この人も、考え方という点では結構変わった人であるが(どちらかと言うと、「良識的」過ぎて変わっているように思える方だけど)、なぜか違和感を感じる事はないのである。「ふ〜ん」とか「なるほど」とか思って許せてしまう感じなのだ。この辺はそれこそ「人柄」によるものなのか、「まあ、小説家だから」、ということで無意識の内に許容してしまっているのか、自分でもよく判らない。何にしても、そういう安心できる随筆家がいるというのは、ありがたいことだ。
(なんか、かっこ注釈の多い文だったなあ。と最後にまたかっこで締めるのであった(^^;)。

※内田百間の「間」は本当は「門」(もんがまえ)に「月」の字なのだが、JISの漢字表に入って  いない。

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